視覚文化叢書 2
長谷 正人(著)
A5判 260ページ 上製
定価 3600円+税
ISBN978-4-7872-7294-2 C1374
品切れ・重版未定
奥付の初版発行年月 2010年11月 書店発売日 2010年11月22日 登録日 2010年11月15日
映画はいまや単にスペクタクルな娯楽としてだらしなく消費されて閉塞状況にある。その現状を打破するために、リュミエール、山中貞雄、グリフィス、小津安二郎などの映画に身体感覚や時間的想像力を見いだし、映画がもつ革命的な可能性を解放する。
はじめに
第1部 リュミエール映画の考古学
第1章 リュミエール映画の考古学――「自生性」の発見
1 空虚な空間
2 リュミエール作品の考古学
3 失認症としての映画的視覚
4 意味の偽装
第2章 リュミエール映画の神話学1――『列車の到着』の神話学
1 起源の神話
2 『列車の到着』神話
3 鉄道恐怖症
4 エンターテインメントとしての鉄道恐怖
第3章 リュミエール映画の神話学2――触覚的経験としての映画
1 観客の熱狂
2 風・土煙・水
3 カメラの視線
4 失認症的視覚と触覚的光景
5 再び『列車の到着』へ
第4章 リュミエール映画の考古学・再考──リュミエールと宮崎駿の「細部」
1 リュミエールの細部
2 宮崎駿の細部
3 時間的な細部
第2部 テクノロジー、身体、古典映画
第5章 テクノロジー経験としての映画──戦争、全体主義、そして生命のリズム
1 テクノロジーと「経験の貧困」
2 「経験の貧困」としてのチャップリン
3 リーフェンシュタール、あるいは「鎧としての身体」
4 テクノロジーの遊戯としての映画
第6章 テクノロジーのリズムと物語映画――山中貞雄、マキノ雅弘、ハワード・ホークスをめぐって
1 狂った?機械と初期喜劇映画
2 韻律的な物語映画としての山中貞雄
3 早撮り、ナカヌキ、そして機械的リズム
4 マキノ雅弘あるいはダンスする映画
5 チーム・プレイのドキュメント
第7章 アニメーションというテクノロジー──宮崎駿をめぐって
1 宮崎駿における「表現」と「思想」
2 「植物に覆われた建物」というイメージ
3 アニメーションという「機械」をめぐる思想
4 消費としてのアニメーション
第3部 映画におけるフィクション
第8章 検閲の誕生──大正期の警察と活動写真
1 活動写真興行取締規則に関する検討
2 ライヴ・パフォーマンスとしての映画
3 映画館という猥雑な空間
4 不可視の権力
第9章 フィクション映画の「社会性」とは何か──D・W・グリフィスをめぐって
1 『国民の創生』をめぐる二つの言説
2 フィクション映画の起源
3 フィクションを捉え損ねる言説
4 フィクションの社会性
第4部 時間的想像力の可能性
第10章 映画、時間、小津
1 主題論的な体系と説話論的な構造
2 「何かが過ぎ去ってしまった」という時間感覚
3 運動イメージから時間イメージへ
第11章 記憶と忘却の経験としての映画
1 映画を分析するという錯覚
2 映画という記憶のたよりなさ
3 映画を想起するという快楽
第12章 レイアウトとしての映画
1 『地獄の黙示録』と主題論的分析
2 プロットと時間の多層的経験
3 『黄泉がえり』と過去の可能性を開くこと
あとがき
索引
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